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小声で挨拶

詩を書いている上田丘と申します。考えに浮かんだ事を書いて行きます。

男女関係について

 男女関係について考えてみたい。人間の営みで最も大きな物である事は、間違いないだろう。なんといっても、ある生物の種が自然界に存在し続ける為には、雌雄が結び付いて子を儲ける事が必要不可欠であって、その意味で生命にとって、根本的な関係だ。と、こんな風に書いて思い出すのは、クローンを始め、その他試験管で命を作ろうとする科学技術で、全く斜に構えた意見として、「別に男女関係がなくても、試験管で生命は存在し続けられる」なんていう言が思い浮かぶが、こういった見方は、実は、作る事も出来るという事と、絶対に必要で、なくてはならない事を混同していて、男女間の関係に付随する良い物によって引き起こされる色々な感情だとかを見落としており、そういった物が動機付けとなって初めて生命は種を残して行く訳で、試験管で生命が作れたとして、それだけで種が存続出来ると考えるのは短絡に過ぎ、間違いだろう。―科学技術自体は、医学的に役立てればとても素晴らしい物だとしても。

 さて男女関係を考えるに当たって、男としては、その最大の関心事は肉体関係だ。と言う事で、先ずはこの事について考えてみたい。男性にとって、肉体関係を結ぶという事は、恋愛に置いて最重要事項だ。但し断っておくが、いついかなる時もそうだ、とは私は言わないし、全ての男性に当て嵌まると断言もしない。唯、一般的な表現として、男性にとって女性との肉体関係が最終的な目標になっている事は間違いない。一方女性にとって男性との肉体関係は、同じく大事な物なのだろうが、重点の置き方が男性よりも遥かに軽いのだろう。恋愛における幾つかのポイントの一つ、といった所で、場合によっては、男性にとっての重要性に比べれば、ケーキに心ときめくのと似た様な物と言っても、そんなに外れていない様に思う。但し、これも例外なくどんな場合でも絶対にそうだとは言わない。で、ここまでは私が現実を、苦労して観察した中で得られた知見なのだが、ここからは単なる推察となるが、生物学的に、ヒトの雄が子孫を残すのには、先ず何よりも女性に選ばれて、「それ」をしなければならないのだが、番いを見付けて子孫を産んで貰えば、後はまた狩りに出る生活に戻る必要があった。その反面、その昔女性は、ヒトの子孫を残す目的の為に、子孫を産んだ後に育てる仕事があって、生殖活動に関しては、子孫を産んだ後はそれ迄と同じ生活に戻る訳にいかず、この辺りの子孫を残す為にしなければならない仕事の違いが、ヒトの雌雄での生殖活動に対する姿勢の違いに反映されているのだと思う。そして、現代の男女においても、男女関係の中での肉体的な行為に関する態度の違いに表れているのだと思う。

 私の世代では、性差が作り出されるのは純粋に、育て方の違いによるものであって、例えば男の子と女の子を育てる中で全く同じ扱いをすれば―身体的な大きさなどは別として―性格や性向は同じ様に育つという考え方が大きかった。所謂ウーマンリブの運動の影響であって、その運動自体は女性の古い役割からの解放にとても役立ったけれど、男女の違いについては、ご存じの通り現時点では、違いがある事を大前提とする立場が主流だ。私も、人間の男女ではやはり違いがあると思う。それは、例えばライオンの雄と雌で、誰にも教えられない内に自然と行動に差が出て来るのと丁度同じだと思う。逆に、ホモ・サピエンスだけは雌雄の違いに関してはまさか野生動物と同じではない、と考えるなら、それは人間の驕りなのだろう。考えてみると、そういう意味では吉行淳之介といった人は、こういった問題について流石経験に裏打ちされた正確さと、確信があった。但し女性関係で苦労をし過ぎた所為か、若干表現の仕方に疑問が残る嫌いもあるけれども。

 さて、男女関係の最終的な目的は、生物学的に考えれば、生殖活動によって子孫を残す為だけれども、それでは男女の間に愛情は無いかと言うと、そんな事はない。唯、お互いにお互いがとても分かり難いだけで。その愛情という物が何なのか簡潔に表現すると、私は意外にも、相手に親切にしたいという感情が正体なのじゃないかと思う。この親切にしたいという感情も、中々一筋縄では行かないのは、親切にするやり方が男女で違う所だ。脳科学的な事は色々と詳しい本が出ており、余り読んだ事がない方は是非一度読まれる事をお勧めするが(例えば『なぜ女は昇進を拒むのか――進化心理学が解く性差のパラドクス』スーザン・ピンカー著だとか)、女性の場合は元々雄が狩りに出ている間、子孫の世話をする事も含めて留守を預かる訳だが、その間他の共同体の女性達と良く意思疎通をし、助け合う必要があったので、女性にとって親切にする事とは、自分と他の人がお互いに労わり合って、相手に何か不便な事や、具合の悪い事がないか気に掛けて、お互いに良くしてあげる事を意味するのだ。それに、男性達が狩りから帰っても、同様に面倒を見てあげればよかった。これに対して男性は、こういった親切の仕方は苦手で、何となれば男性は獲物を追い掛けて行き仕留めるという事が、人類の生存戦略上の役割りであったので、どうやれば獲物を上手く追い詰められるか、その為にはどんな道具をどの様に使うのが良いかを考えて、何よりも先ず結果を出し、食料を家族や共同体の元に持って帰る必要があったのだ。なので、男性が女性に親切にする事は、基本的には結果を持って女性に帰還する事を意味するのだ。この事を現代に置き換えると、例えば熱心に仕事をして給料をより多く持って帰るだとか、何か高価な物をプレゼントするとか、どこか面白い所に連れて行くだとか、だ。

 さて、ここまでが生物学的な推察なのだが、人類にとって難しいのは、男でも女でも、食料や住居があるだけでは駄目で、精神的な満足も必要な事だ。例えば女性の側に立てば、夫や彼氏が高い給料を持って帰ったり、高価なデートに連れて行ってくれるだけで精神的に満足出来る人は、殆どいないだろう。女性が欲しいと思うのは、女性同士で通用している、お互いに細かな心配りで親切にし合う様な関係で、相手の男性に求めているのは正にこんな愛情だ。翻って男性は、基本的にそういった気遣いは苦手なので、幾らその夫や彼氏が相手の女性を好きでもそれが伝わらない。伝わらないばかりか、やれ給料を多くしようと益々仕事の時間を多くするだとか、高いプレゼントを買おうという気遣いはするけれど、女性がして欲しいと思う様な親切は中々難しくて、場合によっては、女性はその内に堪忍袋の緒が切れるか、それを通り越して呆れ始めるのだろう。それに、仕事の時間を多くするとかいう姿勢は、普通女性からすると、自分以外の何かに気を奪われている様にしか見えない筈だ。

 一方、男性の側に立てば、男性が欲しいのは、自分が女性に何かを持ち帰る事が出来たという事実の中にある安寧なのだ。男性は、その中に精神的な満足を感じる。だから、男性は女性に愛情を見せようとする時、暮らし向きが良くなるように仕事に費やす時間を増やしたり、高いレストランに相手を連れて行くのだが、そもそも女性が求めているのはそういった類の気遣いでなく、相手の女性は不満な顔をする。皆さんはこう聞くと、嫌、高いレストランやプレゼントは女性が喜ぶ物だろうと思うかもしれないが、そういった物が愛情を示す過程の中にあればいいのだが、結果としての高いレストランやプレゼントの手配が女性の歓心を誘った例は、私個人ではない。そう、やり方が不味いのだ。それはさて置き、こうなると、一生懸命働く事や高価な食事の先の、元々男性が求めていた安寧は台無しになってしまって、手にするのは、当初の目論見とは全く正反対の、愛する人の怒ったふくれっ面だけだったりするのだ。これはまあ、可哀想と言っても不公平ではない気はする。

 私個人としては、こういった事情で女性には逆効果になりがちなので、誰にでも勧める訳ではないけれども、余り男性特有の気の使い方はしない方が良い気がしている。結局、細かな気遣いについては男性よりも女性の方が得意で、男性の方では気を使った積もりが、女性にとっては全く余計な事だったりするのかも知れない。素人は余計な事をしない方が良かったりするのだ。そう言えば、この間会社で、他の部署が送別用に花を頼んで、間違ってその花屋が私の部署の方へ届けに来たので、親切心をここぞと発揮して元々花を手配していた部署へ足早に歩いて行き、「なんか花が来たよ」と伝えると、その部署の女性達が花の事を夕方まで内緒にしておいて、最後にお別れの花束を渡そうとしていたのをぶち壊しにしてしまった事があった。その花束を手配した入社一年目の女性の、私が大きな声で花束の到着を伝えた時のがっかりした感じは、それはかなりの物であった。こんな場合、男性は兎角、それは知らなかった事なんだから悪気はないから仕方がない事だ、となるのだが、女性にとってはそうでなく、普通の神経と思いやりがあれば花束が会社に届いた時点で大体ピンと来る物であって、「なんか花が来たよ」と、大声で間抜けな事を言ってその場を台無しにするだけでは飽き足らず、それが何故彼女達をがっかりさせたのかも分からないでいる様では、その分からず屋加減が更に追い打ちで彼女達をがっかりとさせるのであった。うむ、気を付けよう。

 そんな違いを持った男女だが、それではどうすればお互いに上手くやって行けるかという事については、先にも書いたとおり、一寸分からない。分からないなりにお互いに辛抱してやって行くしかないんじゃないかなぁ、と、ぼけーっと考えるのみだ。誰だって、好きになった相手とは上手くやって行きたいに決まっているんだけれど、現実がスムーズに運ぶとは限らない訳だ。志ん生大師匠の落語に、ボウフラや 蚊になる迄の 浮き苦労 という川柳がある様に、何もかも棒に振った気分になる時もあるんだけれど、それでも何とかやって行くしかないのだろう。辛抱の中で見える幸せだって、ないとは限らない。と、これ位の事が相手ともし共有出来れば、それで上手くやって行けるのではないか、そう思わなくもない。