小声で挨拶

詩を書いている上田丘と申します。考えに浮かんだ事を書いて行きます。

仕事と、政治とコンピューターについての雑感

 言葉で言ってしまえば簡単なのだが、一つ一つの事を、しっかりと考える事は大事で、とても難しい。場合によっては、その時きちんと考えた積もりが、単にいつもの思考の惰性だったりする。結果的にその人の思考の型と他人から見られる物が出来るのは良いのだけれど、結果的にも、惰性による思考に堕してしまう事がある。それが何時も悪いとは言えないのだろうが、場合によっては本人が困る。

 個人的な出来事を言えば、私は未だ未成年だった頃、よく親から「劣等感で凝り固まっている」と責められたものだった。私の母は、私を母一人で育てなければいけない状況もあって、男の子相手に途方に暮れていた所もあったのだろう。また実際に、私は劣等感の塊だったと言ってもよかった。何故他の人達はあんなに輝いていて、また何故他の人達はみんなお互いが親しくなれるのだろうか、と、そんな事が中学、高校の頃の私のかなりの関心事だった。「かなり」と書くのは、もう一つ他にも女性も主な関心事だったからだ。で、思考の惰性という物があって、この例で言えば、他人を見る度に劣等感を感じる日常を送っていると、当然自分が出来る事はとても限られているのだと、不要な前提を自分自身で作り上げる事だ。そんな私を見たのと、またそんな私の言動が母自身にも降りかかって来る訳で、母は仕方なく前述の様に言ったのだった。丁度ザ・スミスの『Ask』という歌の歌詞を思い出す。

 但し、中、高校生の劣等感であれば、それをばねにして何か他の道を見付ける事は出来るだろう。それに、色々な事を必死で吸収する年代の若者を捕まえて、劣等感を持つなと言うのも無理だろう。彼等には、知らない事が多すぎるし、逆にこれから知らなければいけない事も多い筈だ。

 こういった、目の前の現実自体が見慣れない青少年は別として、思考の惰性という物があると思う。ある人は、仕事をする中で、日常的に(何でこんな仕事までをウチの会社がやらなきゃいけないんだ、どうしてあんな面倒な事を俺がやらなきゃいけないんだ)と思っている内に、自分だけでなく他人も巻き込んだ場面で、面倒だけれどもやらないといけない事や、引き受けた方が大局的な利益が期待出来る状況が起こった時に、ここぞとばかりに言う。「それは君や俺がやる仕事じゃないよね?」と。本音では「面倒」だという理由が、言葉に出すと「仕事の範疇が違う」という言葉に置き換えられると、しばしばそれを聞いた他人は、一瞬返答に困るのだが、それでいて事実は、本人が物をよく考えていない結果であったりする。こういうのは、一寸洒落た言葉で言えば、絶望が人の思考を停止させている一例とは言えないだろうか。こう言った言動の裏には、引き受けた事を上手くやり遂げる自信のなさがあるのだろうが、一度本当に無理なのかを自問自答する事は仕事上では大事なのだろう。

 人によって、同じ物や現象を見ても見える物が違うという事実がある。どう見えるのかという所に、その人の個性が凝縮されている。人が自分の殻に閉じ籠もるだけでなく、現実の中で色々な人の個性が表される事は、素晴らしい事でもある。何となれば、その表された個性は、個人個人の葛藤の末に表出された物だからだ。そして、同じ物について見える物が違うという事は、世の中に絶対的な道徳が存在しない事を証明していると思う。だから最も大事な事は、道徳それ自体ではなく、他人が自分と違う意見を持つ事を尊重する事なのだ。だから、日の丸掲揚、君が代斉唱を強制する類の行いは本来の人間の在り様に背いており、何よりも純粋に強制する人間の自己満足である事に注目すべきだろう。ある種の強制が、強制される側に単なる反感しか生まない事はよくある事の様だ。昨今様々な国で無差別な殺戮を行っているISISに関する動向を見てもそうだ。ISISを殺戮に駆り立てるそもそもの動機は、結局構成員それぞれで違う様で、ある者は大国による、不正義を伴う干渉に対する憤慨であったり、ある者は憤慨が個人的権力志向に支えられているのではと疑われたりする。無差別な殺戮への現実的な対応がどうあるべきか考える時、不正義への怒りによって駆り立てられた事への同情があるべきだ。こういった場合、不正義を行った体制が、同時に無差別殺戮の犠牲者の代理になるので難しいのかも知れない。不正義へ対する憤慨を考慮しない対応は現実的な解決方法ではないだろう。不正義を行った体制がISISの主要メンバー全ての命を絶った所で、それを見た次の世代は、新たな不正義が行われたと考えても無理はないし、見様によっては尤もな考えだ。逆に言えば、不正義に対して憤慨する人が、体制を攻撃した積もりで、その実何の罪もない人々の命を奪っている事に気付いていないのも現実と言える。

 千年、二千年前のおっさんも同じ様な事を先ず間違いなく言っていたであろう事を言うが、現代には、人間を断片的な存在と平然と見做す思想がはびこっており、人間的な物が余りにないがしろにされている。2045年問題という考えがある。人工知能の技術的特異点が訪れ、その後の技術的進歩は人間には予測不可能になってしまうという物だ。私はこの考えに纏わる色々な物に嫌悪を感じる。そもそも技術的進歩が予測可能であった事は歴史上あったのだろうかという疑問がある。もう一つとても重要な事は、技術的特異点という物自体が仮想の物であり、仮に2045年頃以降爆発的な人工知能の加速度的進歩があったとしても、2016年時点で想定する程素晴らしい、若しくは危険な物であるのかどうか、疑問だ。言ってしまえば、本日現在で技術的特異点という考えについて確実な事は以上の二つ以外にはないだろう。

私が何より我慢ならないのは、技術的特異点が起こるとして、それが人類にこれ迄想像だにしなかった素晴らしい物をもたらすとする期待が、人間の本当の幸福が科学技術によってもたらせられる物だと決め付けている所だ。世の中を構成する物が何かと問えば、色々な答えがある。私が考えるに、世の中は、現実に起こっている事と、それについての人間の考えの二つだけで出来ている。この場合の「人間の考え」という物には、思惟の全ての様式が入る。思考、思想、芸術までありとあらゆる事だ。人間にとって世界は、現実と、それに対する人間の反応で成り立っていると考えられる。そして現実と思惟の間には、その人間の哲学がある。現実についてある人が考える事の裏には、必ずその人の哲学が表れる。翻って技術的特異点についての技術者達の考えの裏には、人間の本質的な幸福についての哲学が欠片も感じられない。ぼうふりも 蚊になる迄の 浮き苦労 という歌もある。人間の幸福について見落としている点でそんな物は失格なのだ。技術的特異点だとかに振り回されていたら、そもそもボウフラにすらなれないのではないだろうか。

彼等は、人間の偽物に法外な値段を付けて、それを騙して買わせる法螺吹きだ。人間の偽物に人間以上の価値など無い事は明らかなのだから、適正な値段で売るべきだ。ビッグデータがあれば、コンピューターに小説を書かせる事も出来る、そう言って、それがさも素晴らしい事であるかの様に言う人達がいるが、データから上っ面だけで組み立てた芸術に意味なんかなくて、芸術は、人が内面で感じる過程を経たから素晴らしいのだ。コンピューターの歴史は、ある時期以降は、それまで人が行っていた事を電気信号に代わりに行わせる事で、投資家と、その投資を受ける人間だけを儲けさせる歴史になった。勿論、割を食うのは、中流以下の人間達だ。結局、コンピューターに職を奪われているのが本質ではない。手持ちの大金を更にもっと増やしてやろうと画策する、パナマにペーパーカンパニーを持つ、税金すら払わない人間達によって金を強奪されているだけなのだ。コンピューターに音楽や小説を書かせようとする人達については、流石そんな歴史の担い手だけある、人間性を侮辱するのも極まって来た。