読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

小声で挨拶

詩を書いている上田丘と申します。考えに浮かんだ事を書いて行きます。

認識と現実について(安倍、ヒトラー、J. W. ブッシュの類似点)

 小説とは虚構である事を前提として書かれるものだという考え方がある。現実世界とは別の物である事を認めた上で創作される事により、逆説的に現実の制約を離れた自由な表現が可能になり、真実に近付く事が出来るという物だ。これに関連して芸術家が気を付けるべき事があって、それは、芸術世界の理論はそのまま現実世界に持ち込めないという事だ。現実世界の理論は言語で表されるため、とりわけ文学の領域で創作する人間は特に気を付ける必要がある。

 例えば、「その若者二人の会話は、熱心に話をしている内に、段々と小学生位の男の子が話をしている様な雰囲気になっていった。彼等は、とても仲が良い。」こんな描写は、小説では完全に成立する。若者二人の会話が、段々小学生風の口調に代わって行き、それを仲が良い証だという作者の感想は、作者の感覚に合致している。であるから、芸術作品として成立している。但し、この「小学生みたいな雰囲気」と「仲が良い」という二つの事柄は、現実世界においては、必ずしも結び付かない可能性がある。芸術は作者の感覚によって成り立つので、作者が感じた事は全て正しい。但し、それが現実世界でも正しいとは限らない。もう一つ例を挙げると、「その軍人二人は上官と部下の関係だった。上官はその部下を、訓練でこれ以上はないという程徹底的に鍛え上げたが、その部下はその地獄の様な訓練に音を上げずに付いて行った。二人は、良い上官、部下の関係だった。」私ならこれが小説で書かれていれば、テーマの取り上げ方に疑問を持つだろうが、作品として成立しないとは思わない。但しこれが芸術作品でなく現実の事を描いているのであれば、(そんなもんほんとは部下がどう考えてるかなんて分かりゃしないよ。)だとか、(人殺しの訓練で良い関係ねぇ。)と、先ずはそんな感想を持つと思う。この私の感想が、百パーセント妥当かどうかは別としても、兎に角この二人の関係が「良い上下関係」かどうかについて、疑問を持つ人がいる可能性がある訳だ。詰まり、書き手の感覚も、必ずしも正しいとは限らない可能性があるのだ。それでは人は何か自分の意見を書く事は不可能なのか、という事になってしまうのだが、それは勿論そうではない。唯、書き手は現実世界の事を書く際には、芸術作品を創作するのと同様にそれを行ってはいけなくて、現実世界について書くのであれば、現実世界の理論で書けば良いのだ。芸術作品の理論は、詰まり作者の感覚であって、現実世界の理論は、それはとりもなおさず「理屈による思考」で構築される。つまり、感じた事を頭で理屈に直す必要があるのだ。逆に、芸術の優れた所は、自由に感覚で作る事が出来る所だ。偉大な作家とされる芸術家が、後世から見て人を不幸にさせる体制を大々的に擁護する様な意見を述べる事があるのは、この感覚の理論と思考による理論を取り違えた事が大きな原因な様に思える事が多い。偉大な芸術家が、同様に偉大な思想家とは限らない。また、ここでは特に文学者を例に挙げたが、言語以外を表現方法とする芸術家が発言する際にも、全く同じ事が言える。芸術家は、現実世界に対して発言する際、芸術世界での論理のまま発言しない様に特に気を付けるべきだ。現実世界での理論とは、取りも直さず他者が意識された理屈で構築される必要がある。

 芸術家であるかそうであるかに限らず、エッセイだとか小論文という物は、思考の手段であるべきで、作者の思考の日常的経路の表明に終始してしまうと、どんなに切実な思いが背後にあっても、度を超えて無責任な態度しか受け手側からは見て取れない状況に陥り勝ちだ。但しこれは裏を返せば、「この人はなんて無責任な事を言ってるんだろう」と思われる意見でも、その発言者なりに切実な感情がどこかにあるのかも知れない。この場合は、どこかの国の政治家の様に、論理にすり替えや酷い混同があったり、自分の立場を上に見せる為だけに無意味に論戦を吹っ掛ける様な事がなければ、倫理的には最低限問題はないのかも知れない。意見に違いがあり、それに関してお互いに議論をして、そこから双方が何でもいいから考える事があれば、現実問題としてはそれでも良いとは言える。但しその意見に、どんな形であれ戦争を肯定する思想は入ってはならない、と私は考えるが。人は戦争をしない限りは、議論が成り立つのだ。

 例えばヒトラーを考えてみる。彼が人々を扇動する為に言った事は、ユダヤ人を虐殺すべきだとか言う事ではない。人々は、単純な多民族の殺戮を目的として政治的主導者を選ばない。ヒトラーと彼の周辺の有象無象の人間達が当初作った方針では、侵略した土地でユダヤ人を重労働につかせた挙句、空前絶後の規模で飢え死にさせる積もりではあったが、それはあくまでガス室での積極的な殺人ではなく、飢餓状態に放置する事による殺人であり、領土拡大とアーリア民族(そんな物が科学的にあるとすれば)の繁栄の結果なのだった。しかしながらヒトラーの無計画に等しい甘い見通しに反して、人間の限界を超えて搾取する意図を持つ軍隊が侵略して来た戦時下の土地では、期待した何分の一の食料しか産出されなかった。加速度的に厳しくなる食料事情に焦り、飢えるのはドイツ国民ではなく、「無駄飯喰らい達が先ず飢えるべきだ」という独裁者の叫びの結果が、ホロコーストなどでの大量虐殺に繋がった。

彼の目的は、ドイツ民族以外の民族からの徹底的な搾取を基礎とした領土拡大だった。彼自身のそういった誇大妄想的な野望に、他人が聞いた時に説得力を付け加える必要があったのだが、その説得力を得るために、彼は当時のドイツ国民が第一次世界大戦時に嫌という程味わわされた飢餓への恐怖を利用した。東方に領土を拡大せよ、そうすればドイツ民族は自らを食べさせて行く事が出来る、と。勿論その説を裏返すと、ユダヤ人やその他の民族への差別観によって考え出された極限を超えた搾取が前提とされていた。そうした搾取により、当時イギリス帝国やアメリカ合衆国が享受していた富を手に入れる事が出来る、と民衆に説いたのだ。だから、東方に、侵略と搾取によるドイツ民族の生存圏を確保するのだ、と。こういった彼の言説には、ある混同があった。彼は、民衆の生存を脅かす飢えの恐怖を煽り、それを富への欲望とすり替える事で民衆を扇動し、権力を手に入れたのだ。飢えを充分避けられる程豊かである事と、世界で最高の富を手に入れる事は、言うまでもなく同じ事ではない。他人を扇動する人間の狡猾さがここにあるし、落ち着いて考えると簡単な事に、人はた易く騙されてしまう事がある証拠でもある。

実際、当時のドイツはドイツ国民に一定以上の水準の生活を与える為に、戦争ではなく、農業技術の発達を促進し、他国との貿易を行う事でその目的を達する道があった。何故ヒトラーがその道を取らなかったかは明白で、彼は権力を手に入れ、自分の思想(と呼べるのなら)を満たす様にドイツの行き先を変えたかったのだ。彼がその野望をとうとう叶えられないと悟った時、つまり連合国軍が彼の居場所に迫ろうとした時、彼が自殺という行動に出た事は示唆に富む。彼には結局、ドイツ国民の行く末などはどうでもよかったのだ。彼自身の野望が叶えられるか、そうでなければ死ぬか、そのどちらかであり、彼が扇動した人達についてその時心配をしたりなどはしていなかっただろう。彼が持っていたのは人々を幸せに導く為の論理ではなく、単に彼の個人的野心を達成したいという利己的な感情だけだったし、自分の煽動の影響の範囲外にいる人間と戦わせるだけの詩論も持ち合わせていなかったのだ。いずれにしても、彼は人々の恐怖に付け入り、飢餓(科学と外交で避ける事が出来る物)と帝国的富(搾取により手に入れられる物)という似て非なる物を人々に混同させる事で、自らの野望を叶えようとしたのだ。

 さてここで私は、現在の我が国に関しても触れなければならない。最近安倍氏が執った、憲法に反するという多数の学者達の指摘を無視する形で、集団自衛権の発動を可能にする法律を成立させた事は非常に興味深い。まあ先ず、憲法に反する法律が成立したという風に、論理が有り得ればの話ではあるが。彼のこの動きは、JWブッシュがイラク戦争開戦に踏み切った事情に酷似している。どちらも自分の政治的な決定に確信が持てていない内に、正に自分がそうしたいから、という理由一点でそれらを実施した点で同じだ。JWブッシュが開戦に踏み切った最大の理由である、フセイン大量破壊兵器を自国に隠し持っているという主張が誤りであった事は、その後判明している。彼自身も最近、彼が判断の基とした情報が誤りであった事は認めたが、アメリカ合衆国大統領という立場で、つまりその立場で知り得る多くの情報に触れていて、存在しない物が存在すると確信など出来た筈はない。一方安倍氏の決定についても、同様な事が言える。2015年6月4日の衆議院憲法審査会で、自民党推薦の学者一人を含む、招致された法学者三人中の三人までが違憲であると言う中で、その法律が違憲ではないと確信が持てる人間はいない。安倍氏にしてもブッシュ氏にしても、何故それらの決断に踏み切ったかというと、自分が見たい国を実際に見てみたいが為だけに公共の利益をほぼ意図的に切り捨てたのであり、非常に残念だが、根拠のない理屈を振り回し自分の政治的野心を通すと言う意味で、彼等が取った行動は、前述のヒトラーと全く同じであると言わざるを得ない。芸術家は自らの芸術世界と、現実世界は別の物だという事を意識する必要があるのと同様だ。もしこれを聞いた人が大物政治家と、芸術家の中でも木っ端の様な存在の人間では規模が違うという人があれば、それは間違いで、根本的には同じだ。何となれば、安倍氏にしろ誰にしろ、権力を持ってしまった後で見ると、何となくそもそもその人間に権力が備わっていたかの様な感じ方を人はしがちであるが、そもそも彼等は単なる一人の人間でしかない。そもそもが彼等の様な人達を国会議員候補として仕立ててしまった人達の目が疑われるべきあり、そしてその候補を議員として選んでしまう人々の目についても、自戒を含めて、真剣に疑う必要がある。この意味でも、安倍氏が権力を持っている間に行った色々な事―国民から託された権力をメディアへ圧力を掛ける為に行使したのかどうか、もしそうであるならば、どの様になされたのかだとか。そもそもこれについては、彼と彼の意を汲んだ周辺の人間が放送法の歪曲した解釈によってテレビ局へ圧力を掛けた時点で、日本の全てのマスコミが、体制寄りであるか反体制であるかの別なく、内閣を総辞職させるまで徹底的に糾弾する決意にならなくてはおかしいのだが。安倍氏については、彼の政治家としての歴史は、そのまま言論弾圧の歴史なのではないかと思うばかりだ。更に言えば、ヒトラー、ブッシュ、安倍に共通するのは、程度の差はあれ、その周りに同じ様な野望を持った有象無象の人間が彼等を囲んで集まり、その権力を借りて各々個人の野望に沿った好きな事をし出す所もそっくりだと言えるだろう―を、彼が権力から降りた後も引き続き過去に遡り検証する必要が大いにある。権力者が権力を去った後に、その期間中何をしたかについて知れば、それは未来についてより賢くなる良い手段になる。人生でも同じではないだろうか。人生において自分が致命的に悪い選択をした時、どうしてその選択をしてしまったかを知る事は、その後の人生に掛け替えのない見識をもたらしてくれる。願わくば私が、この年になった後で、人生で更にいまさら致命的に悪い選択をしない様に、とは祈るけど。

 

参考文献

Hitler’s world may not be so far away | Timothy Snyder | The Guardian, url: http://www.theguardian.com/world/2015/sep/16/hitlers-world-may-not-be-so-far-away

『戦争と飢餓』リジー・コリンガム