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小声で挨拶

詩を書いている上田丘と申します。考えに浮かんだ事を書いて行きます。

淀五郎―古典芸術と現代

 落語の人情噺に、淀五郎という話がある。ある時仮名手本忠臣蔵が出し物の時、本来出演予定だった役者が体調を壊し、その代役として、ほんの下っ端から、名題(なだい)と言って、看板に名前が載る立場に淀五郎という役者が大抜擢されるが、淀五郎は、良く見せよう良く見せようとする気が強すぎて、逆に良い芝居が出来ない。判官切腹の場面、淀五郎は塩冶判官役、大星由良之助役は、その淀五郎を大抜擢した市川團蔵(だんぞう)だ。切腹を命じられた主君の最期を見届けるべく、由良之助が伯耆国(ほうきのくに)から駆け付け、なんとかそれに間に合う、という場面である。團蔵は、淀五郎の不味い芝居に呆れ、(馬鹿馬鹿しくってこんな判官の側まで行って芝居が出来るか)と思い、花道の七三に留まったままで演技をしてしまう。芝居が終わった後、一体どんな演技をすれば團蔵の気に入るのかを問うと、「どうもこうもねえ、本当に腹ぁ切るんだよ。」と吐き捨てる様に返される。それは結局、團蔵なりの叱咤なのだが、そうであるとは考えられない淀五郎は、(『本当に切腹しろ』って言うのなら、明日は舞台で本当に腹を切って死んでやる。その前には、團蔵も道連れで突き殺してやる。)と思い詰める。

 古今亭志ん生さんはここで、「こういう料簡になる事があるもんですな、人っていうのは。」と言う。私にはこれが何故かとても心に響き、また理解出来る気がする。人は、特に若いと、のっぴきならない状況の中で親切にしてくれている人に、「引き出し違い」で逆恨みしてしまう事があるものだ。

 そして淀五郎が、小さい頃から世話になった中村仲蔵(なかぞう)という役者に最期の挨拶に行くと、淀五郎の様子を見た仲蔵が、團蔵と淀五郎の芝居の様子を聞く。直ぐに團蔵の真意を察して、仲蔵が淀五郎に優しく諭して言うのには、「よぉく考えなきゃいけねぇぜ?なあ?」。團蔵の仕打ちは、お前を一人前にしてやりたいからこそ、やりにくい中を七三で芝居をしているんだぞ、と言う。そしてこの台詞も、私は最近時々思い返してみる事がある。何かをしていて、自分の中のよくある思考の、日常的な回路に入ってしまいそうな時とか、本当はもっと目の前の現実を一生懸命に見て、それについてこそ自分が対応を考えなければいけない時、志ん生さん演じる名人中村仲蔵の言う言葉、(よぉく考えなきゃいけねぇぜ?)、そう言うのが想い起される。

 この後淀五郎は、中村仲蔵の助言もあって、次の日の芝居では團蔵の納得の行く芝居をする。仲蔵が淀五郎の芝居のやり方を見て、「今のお前さんの芝居には、まずいだけじゃない、嫌ぁな所がある。お前さんは名題だなんだって客に褒められよう褒められようとするから芸に欲が出てしまうんだ。」型にきちんと倣って、大名の切腹とはどういう物かをよく考え、欲を捨てれば事によると判官になれるかも知れない、と言う。これに目が覚めた淀五郎、次の日には捨て身の芝居で團蔵にもその芝居を認めさせて、團蔵も七三でなく、やっと判官役の淀五郎の傍迄来て芝居をしてくれる。「御前!」と團蔵演じる大星由良之助が言う。それに対して淀五郎演じる判官が返して、「由良之助!待ち兼ねたぁ。」実に落語という芸の中で歌舞伎の芸を語る、とても粋な人情噺だ。

 You Tubeだとか、図書館から借りるCDだとかで落語を聞いている内に、直に落語を聞いてみたくなり、最近寄席に行った。春風亭一之輔と柳家小三治が特に面白かった。筋の良さみたいな物は、二人とも同じかも知れないが(芸の若さの勢いがそう思わせるのかも知れないが、もしかすると筋は一之輔の方が上かも、とも思う)、芸の成熟度は柳家小三治師匠の方が流石に全然上なのだろう。安定感、安心感が小三治師匠の方が全然上だった。クラブで、一流とそうでないDJの差は、「引く」事が出来るかどうかだと、私はよく考えるのだが、小三治師匠は、引いて聴衆を自分の言う事にぐっと引き寄せる事が出来る。この境地については、志ん生大師匠も、息子の志ん朝師匠に語った事があるそうだ。志ん生師匠も、年を取って、志ん生の名跡になった頃からが特に芸が良くなったらしい。

最近落語を聞きながら、「落語は芸術なのだろうか」という事を考えていた。まず思うのは、落語が芸術であると言うと、野暮になるな、という事だ。で、まあ、それはそれとして考えてみたが、一つ私なりに所謂芸術と呼ばれる物と、落語とで違う所が思い当たった。一般的な、美術、音楽、文学といった芸術の場合、一流の物を鑑賞していると、一流の作品になる為の、はっきりと明らかにはなっていないだけで、確かに存在しているある一貫した方法によって創作されている、としか思えない時がある。臥龍点睛と言ってもいい。落語には、この点での鑑賞者側からみた不文律みたいな物は感じない。

 これを読んだ方の中には、「こいつはまたこんな詰まらない事をどうして言い出すんだろうな」と思われる人もいるかと思うが、私は文学作品を創作するので、どうしてもそれを他の物と比べてしまう。自分が何をやっているのかを、知りたいからかも分からない。そして、一般的な芸術と落語の違いと思われる物を挙げたけれども、だからといって、それ以上そこから何か善し悪しに関して発展出来る物ではないとも思う。

更にそういった違いはどうして存在するのかと考えると、落語が伝統的な話芸である事に関係しているのだと思う。落語の芸術性は、古典落語の形式の中に、それが見出せるのだ。新作落語については、作られ方としてはやはり古典落語の手本の中で作られており、同じく手本とする伝統の中に芸術性がある。この事をもっと具体的に言うと、落語の芸術性は、高座という場の形式にあるのだと思う。この事は、歌舞伎にも同様な事情を見出せるかも知れないし、クラシック音楽の奏者にも対応するかも知れない。つまりこれらは、創作されて鑑賞される芸術ではなく、体現され、それが味わわれる芸術である事を意味する。

 こういった体現される芸術は、その昔は、これこそが一般的な芸術の形態であった筈で、今と違い、映画が使用する映像技術はおろか、活字が発明される迄は、書写はあったにしても、文学ですら語られ、演じられる形態が一般的だった筈だ。落語で言えば、伝統芸能という括りになっているが、芸術の手法としては、詰まる所は基となる噺を演じる一人芝居だ。今程芸術が再現可能でなかった時代には、芸術にはそれを具現化する主体が絶対に必要だったのだ。対して現代では、相当な程度まで芸術を再現出来る様になった結果、文字で読まれる詩や物語や、データで聞ける音楽が存在する様になり、芸術がより多様になった。それでは、その昔からの流れを汲む、具現される芸術の必要性が薄れたかと言えば、勿論そうではない。私は、人が芸術に接する根本的な理由とは、自分と同じ様な状況にいる人が世界には居り、そこで自分と同じ様に感じ、考える人が存在するという事を確認したいからだと思っている。最終的な芸術の目的がこういった性質の物であるので、具現化する人を介して味わわれる芸術が不要になる事は決してない。むしろこういった芸術の存在は、現代の中で絶対量としては減るだろうが、それに反比例して、当然その価値は貴重になる。

0と1が人間よりも偉大な存在になるかという主題は古くて新しいが、人は人が良い様にしかしない。二進法の世界であるIT技術が人間より偉大になり、それが人間を脅かすのであれば、それは退化であって、人はそれを許さないだろう。でなければ、地球上の生物の食物連鎖の頂点に立った、この人という種は衰退するだけで、その道は多分人は選ばない。実にIT技術があらゆる所に存在する現代にあって、落語を始めとする芸術が必要とされ続けるのは、これが理由なのだ。

 そもそも0と1の世界とは、詰まる所On(0)とOff(1)のスイッチが、想像を絶する程の量繋げられて、ある条件下で想像を絶する速さでそれぞれがOnになったりOffになったりするという物で、すさまじい量の条件分岐の堆積であり、それ以上でもそれ以下でもない。とかくIT産業の大物達は、――或いは彼等、彼女等の話を伝えるメディアの伝え方が悪いのか、どちらかは知らないし、もしかすると両方が悪いのかも知れないが――こういう物言いをする。「近い将来、チップは人間を超えるだろう。」又は、「十年後には、現在存在するあれこれといった、非常に大量の職業がロボットに取って代わられるだろう。」と。その真偽は兎も角、これらの発言は、言外にこうも言っている。「人間という種は、ロボットによって脅威にさらされるだろう。」と。全てのデマゴーグの常套手段は、ある二つの異なる事柄を混同させる事で、自分の求心力を上げる事だ。IT産業の、ある種の大物達―実業家だったり、研究者だったりするが―彼等は、一つには人間の種の存続の問題―人間は、自らが作ったロボットに征服されるのではないかという、SFがかっているが本能に関わる恐怖―、二つ目には人間という種の内部での生存競争―ロボットに取って代わられない職業を巡る争い―を意図的か意図せずにかは兎も角、それ等を一緒くたに論じ、混同させる事で、その聞き手を煽り、自分の求心力を上げようとする。政治的な独裁者達は、こうして得た求心力をてこに権力を手に入れようとする。現代の一部のIT産業の人間達がそうして得た求心力を用いて何を求めるのかは、それは勿論、権威か、権威がもたらす投資という名の金だ。彼等が無責任に「人は機械に取って代わられる」という時、本当に彼等に関心があるのは「だからさあ、私に投資しなさい」という事だけだ。そうでなければ、彼等が本当に専門家であるなら、機械に取って代わられた後人は代わりにどうすべきかの言及があってしかるべきだ。それに、ある種の穿った見方を取れば、0と1が凄いのはIT産業の大物達が凄いのではなく、電気信号が凄いだけなのだ。この点についても、我々は留意すべきだ。あくまで、人がITに使われているのではなく、人が電気信号という、元々自然界に存在する現象を利用しているだけなのだ。

 機械に取って代わられた職業の代わりに人間が何をすべきかについては、色々な研究がされている。これまでの人類の歴史の中で、技術的な革命によってある職業がなくなっても、その新たな技術によって違う職業が創られて来た事はよく知られている。現在起こっている情報技術革命でも、同様の事が起こるのか、そうでないのか。同様な事が起こらない場合でも、そもそも今回の技術革命は余りに革命的で、人は代わりの職業がなくても暮らしていける様になるのではないかという説もあるようだが。いずれにしても私が思うに、多くの人々の職業が機械に取って代わられて、結果としてそれらの人が生きるのに困り、一方IT産業の大物や、彼等に莫大な金を投資する投資家達が反比例的に裕福になるのであれば、人類がロボットに存在を脅かされる代わりに、あの古典経済学のマルクスが言った、本当の革命が起こるのではないか、そう夢想するのだがどうか。