小声で挨拶

詩を書いている上田丘と申します。考えに浮かんだ事を書いて行きます。

学校、及び学ぶという事について

 基本的に私は、小学校、中学校、高校と、国語にある苦手意識を持っていた。自分としては本を読むのは好きなのだけれど、「この時の主人公の気持ちを述べなさい」といった形式の問題で、不正解にならない迄も部分点として引かれていたり、又は全くの不正解だったりする事が、自分の本が好きという自負に反比例する様に、多かった。国語よりは英語の方が得意だった。反面、物理の中間だか期末だかの試験で一桁台の点数を取った事があるのに比べれば、客観的に国語が私の中での不得意科目であった事はないのだろう。その後大学では英米文学を専攻して、それを勉強して行く内に、先に述べた様な文学への変な苦手意識もなくなって行った。芸術だとか文学とかいう物は味わったり、評論の対象としたりする物ではあるけれど、それについて問題を出されて、その答えに点数を付けられるのに、本質的に向いていないのだろう。一方で学校という制度は、人類の子孫に、人間という生物を現在食物連鎖の頂点にする程の、最も優れた生存戦略である知識の伝承を、とても効率的に行う物なのだとは思う。そういった場で国語を教えない訳にはいかないだろうし、むしろ必要なのだろう。自然言語なくして人間という存在が有り得ないという事に、説明は不要だ。それに、人生万事塞翁が馬。子供の頃の苦手意識を乗り越えたから、何か良かった所も無いとも限らない。

 さて、国語であろうと物理であろうと、何かが分かるとか理解するという事は、考えてみれば、中々やっかいな場合がある。先ず、何かを理解する事については、ある人の理解の仕方に制約は無くて、どんな理解をしようがその人の自由だ、という大きな前提がある。それはつまり、一寸矛盾する言い方をするが、必ずしも理解出来なくても良い、という事なのだ。どういうことかというと、人は何かを理解する過程では、それ以前よりもその何かについての理解がより深まって、その上で「物事を理解出来た」と自覚出来る場合も多い。つまり、どんな理解をしようと構わないし、また必ずしもその時に何かを理解しなくても良いのだ。何故なら、この寛容さこそが、人の理解を担保するからだ。今現状の理解が足りなかったとしても、明日か、さ来年か、もっと後かも知れないが、いつか理解が出来る。勿論ずっと分からない儘かも知れないが、それでも本質的には構わないのだ。何故なら、理解しなくとも構わないという姿勢こそ、何かが分かる事に繋がるからだ。私は先に国語でも化学でも同じだと述べたが、その他世の中に出てからのあらゆる事で、こういった前提条件は当て嵌まる物だと思う。でなければ、私の様な人間は、一体どうやって生きたら良いのか分からない事になってしまう。

ここで翻って、小、中、高校生の勉強に戻ると、ここでそれ程大きな問題を論じる積もりも資格もないのだけれど、少なくとも「理解する」迄に割りと多くの場合に辿る事になる前述の事柄を考え併せると、子供達も大変な状況に置かれていると言わざるを得ない。何故なら、学習の一応の帰着点として試験という物がある限りは、彼等は「理解しなければいけない」状況にあるからだ。