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小声で挨拶

詩を書いている上田丘と申します。考えに浮かんだ事を書いて行きます。

芸術の中の詩と小説、及び純文学と言う言葉について

   書かれなかった小説

 

なかなか書けない小説は

もともと書けることのないものだったのだと諦めよう
そしてなかなか進まないあの娘との仲も

初めから無かった物だったのだと諦めよう

私は へなちょこだ(しかも 虚勢を張る)

 

今は分かる

例えば 成り上がりが調子に乗り

二十も年の離れた若い子と結婚してから

すぐ別れたって

それはそれで

仕方のない事なのだ

つまり人生なんて 失敗したように見えてもまだまだ先に続くのだ

 

焦燥も義理も 我々は忘れて良い

何故ならこの世にルールなんて 元々無いのだから

 

クラブの便所で二時間眠りに落ちちまった後 踊っている奴らを見て思った

「こいつら 何馬鹿みたいに楽しそうに踊ってんだろう」

 

 

 詩人にとって、小説の話題は凄く世俗的な意味で微妙な話題だと言えなくもない。市場規模が違うのだ。詩を書くような人なら、当然小説もそれなりに楽しむ訳で、小説が嫌いと言う事は実際にはない訳だけれど。

 何かに遮二無二突進して行って書くのが、詩だと思う。個人的な話をすれば、私が十代の頃ねじめ正一さんのエッセイで、『若い人達はもっと人の目を気にせずに行くべきだ。人の目を気にしないという事は、どういう事かと言うと、つまり狭い所にぎゅうぎゅうと何でもかんでも詰め込むことだ。関係ある物もない物も、兎に角一つの狭い所に詰め込んでしまう事なんだよ。』という趣旨の事を読んで、正直余りにもプライベートな事過ぎてここに書きたくない位なのだが、詩の事で酷く弱っている時など、その事を思い出して、杖代わりにしていた事もある。そして、そんな風にして書く詩人が一番困る事と言うのが、自分がどんな詩を書いているのかを知るのが非常に難しい事じゃないかと思う。勿論、小説家も作品を作る以上同じ様な苦しみは味わうに違いないが、困り加減で言うと、比較的に詩人の困り方の方がより大きいと思う。一方一応断っておくが、詩にしても小説にしても、ある作品を作るのが基本的には苦行である訳ではなく、自分が作った物がどんな物かを認識する中にはそれなりの苦しさが伴う事がある、という事だ。

 詩と小説の違いは、詩は書き手の情感の表れである一方、小説は書き手の世界観や、広い意味での生き方に関する倫理観の表れだと言う事にある。勿論、詩も書き手の世界観を表す事もあれば、逆に小説が書き手の情感を表さない筈はない。但し、詩と小説を比較した場合、詰まる所はひとえに詩は情感の表現であり、小説は世界観や、生き方の倫理観の表現だと言えると思う。私は十代の頃、中原中也の「サーカス」だとかを覚えて、それをよく声に出さずに諳んじた物だけれども、最終的には詩は詠ぜられる事を指向する。小説は、元々「小説」という言葉は「取るに足らない説話」という意味だそうだが、最終的には説話になる事を指向する。そして小説家よりも詩人の方がより困る度合が強いと書いたが、人は世界観や大雑把な生き方の倫理は一時的に忘れる事は出来るが、情感を感じなくする事は出来ないからだとも言える。人は、たとえ感じたくなくても何かを感じるし、それを止める事は出来ず、詩人の方がより困窮の種が身近に引き付けられているのだ。

 詩と小説は、言うまでもなく文学という領域にある。そして詩がどうこう、小説がどうこうと言う以前に、文学は、音楽や美術と同じく、芸術の一分野だ。芸術が何かと言う事はここでは余り述べるのは控えるが、漠然とした言い方で言えば人の表現だ。人が芸術作品に接する理由は、一つには、世の中には自分と同じ様な状況で、同じ様な事を感じ、考える人がいるという事を、確認したいが為だ。文学が初め詩(つまり韻文)の形式で起こり、それから小説という形式が発展するという歴史の順序を考えるのは、こういった意味でも興味深い。そして繰り返しになるが、本来詩や小説が並べられるのは、他の芸術形式である、美術や音楽とだ。美術や音楽と並べられた時、文学の中に「純」だとか「雑」だとかはなく、むしろ「雑」であろうが「純」であろうが芸術であれば何でも包含出来る、懐が深い領域であり、その懐の深さが芸術が「人間」を表現する事を可能にしていると言っても良い。それに、芸術作品という物は、抽象的であればある程良い、という物でもない。日本には、純文学と大衆文学と言う、文学作品の分け方がある。この純文学という言葉は、既にこれだけ一般的な単語になるとそれを使用する人を個人的にどうこう思う訳ではないが、文学に対する独特な誤解を生んでいる。この単語が出て来た成り行きも色々とある様だが、現在では、要するに「芸術のエッセンスを凝縮した物で成り立っている文学が純文学である」と言う曖昧な定義で使われているが、これは先に述べた、本来文学という芸術が持っている懐の深さを無視した分け方で、根本的な無理が存在する区分けだ。

 所で、こんな話がある。江戸の町で男が二人道ですれ違い、肩と肩がぶつかって、片方が「すいません」と謝ると、もう片方の男が「気を付けろよ⁉」と荒っぽい声で言う。それを聞いて初めの男が怒り、もう片方の男に直ぐに近付いて行き、「『気を付けろ』とはなんだよ、おめえ!」と言う。肩と肩がぶつかるのはお互い様なのに、謝っている相手に「気を付けろ」と怒鳴るとはどういう事だ、喧嘩を売っているのかと聞くと、相手の男は言い返せず、「いやあ、別に喧嘩なんか売ってねえよ、ただ本当に『気を付けて欲しい』と思って言っただけなんだよ。そんなに怒る事はねえんだよ。」と言ったという。言葉というのはそれ程難しい物だ。「純文学」という言葉についてだが、この単語の裏には、「まるで崇高な『純』文学の範疇にさえ入ってしまえば、何も分からない人間にその作品の批判なんかさせない」だとか、「『純文学』の範疇にある物は、全て崇高な文学であって、それに入りさえすればある種優劣すら存在しない」とでも言いたいのかと勘繰りたくなる物がある。こういった事について改めて考えてみると、誰かによって作られた作品にある意味では優劣が存在しないのは、全くの間違いではない。ある作品を味わうという事は、本質的には作り手が作った作品と、それを味わう人との一対一で成立しており、元々は鑑賞する対象の中での優劣を決める事が目的ではないからだ。唯、現在この単語の使われ方からは、その範疇に認められる作品は無条件で一段高い地位が与えられ、そうでない物はそれよりも一段低い位置に置かれる働きをしてしまっており、この点で、非常に誤解を生む単語だと言える。それに、そもそも芸術性という物は、ゼロか一かという物ではなく、濃淡の連続体、英語で言うスペクトラムと考え方が出来る物である。既に述べた様に、この分け方自体に無理があるし、現実では、純文学と言われる作品を読んで、人生でも指折りな位下らなくて無駄な時間の使い方をしてしまったと感じる事もあれば、大衆文学と呼ばれた作品でも、実は芸術に含めなければいけない作品もある。分けるとすれば、芸術かそうでない作品か、又は文学かそうでないか、という分け方しかない。もう一つ、文学の中のジャンルに批評があるが、批評作品は芸術作品ではない。批評作品の場合、そこで使われる論理は現実世界で使われる論理であり、芸術作品がその世界の中で用いる論理とは一線を画する。一方で、批評作品は間違いなく文学作品でもあるので、この場合の「文学」という言葉は、先に述べた音楽、美術と芸術の分野として並べる時の使い方ではなく、「言葉」による作品を包括的に呼ぶまた別の意味、つまり文芸作品という意味になるだろう。付け加えて言うと、「純文学」と言う言い方が、文学に不必要、不正確な神秘的な意味合いを付けてしまっていて、文学作品と呼ばれる物について改めて言及したかったので、わざわざこんな事を書いてみた。それにこの「純文学」という言葉は学術的な用語として見た場合は、例えばF. Scott Fitzgeraldの「The Great Gatzby」だとか、J. D. Salingerの「The Catcher in the Rye」といった類の一流作品は、その言葉の範疇に収める事が出来ていない様に思われる。詰まる所この言葉は、芸術作品のあるジャンルを指すのではなく、文芸作品をむしろ世俗的な側面から捉えた、社会科学的な用語と言った方が、最も正確な呼び方だろう。