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小声で挨拶

詩を書いている上田丘と申します。考えに浮かんだ事を書いて行きます。

発言することについて

このブログの準備として、ID登録や、メールアドレスの登録などをしていて思ったが、発言するということは、色々な問題を含んでいる。面と向かった発言であれ、このブログや紙媒体などの基本的に一方的な発言であれ、それを聞いた人は後で私の発言を思い返し、良かれ悪しかれ評価を与える訳だ。それが友人なりなんなりであれば、例えばそれが「ちょっとあれはないね」といった評価であれ、そこには言葉面だけではない何かがあるんだろうと思う。例えば、(何言っちゃってんだかね!)と思っていても、無意識に、(でも、あいつの言う事ももしかしたら正しい一面があるかも)と、あくまで無意識にでも感じているのかも分からない。

やっかいなのは、自分をよく知らない人からの反応だ。何しろ、発言者の事をよく知らずに、その人のある発言についてだけ評価するので、そこにはある程度の誤解があっても何の不思議もない。それで、誤解がある中で評価して貰っても、評価する人がそれなりの言い方を知っている人ならまあそれ程問題がないのだろうが、あまり自分と違う意見に寛容でない場合が多い人からの評価を実際に聞いてしまうと、これが色々問題が出て来たりするものだ。

翻って考えて見ると、何か発言するということは、こういった事が起こる可能性を含んでおり、日常的な物ごとを、日常的に会う人たちと会話を交わしている分にはまあ、問題がない事が多いのだが、個人の考えの内でも核心の部分に近づくほど、こういった色々な事が起きてくる可能性が高くなるはずだ。若干の例外を挙げると、芸術作品については、こういった「発言についての反論」に纏わる問題は少なくて、理由は芸術作品の場合発言の内容が本質的な問題にはならず、作品の作品としての質しか本質的には問題にならないからだ。この例外を除けば本来的に「発言」する事には、それがある人の核心に関われば関わるほど問題が起こる可能性がある。それでは、なぜ人は発言するのか、ということについて考えたのだが、一つには単に言いたがりの自己主張である可能性があるが、これはやはり違っていて、たぶん自分の意見を表明する中で他の人と繋がりたいからなのだろうと思う。