小声で挨拶

詩を書いている上田丘と申します。考えに浮かんだ事を書いて行きます。

映画『まんが島』

 有給休暇を取っていたので、新宿の映画館で『まんが島(じま)』を観て来た。武蔵小杉から乗り換え無しで新宿三丁目に出られる様になっていて、便利だった。映画館で整理券を貰って、上映開始まで少し時間があったので、辺りを散歩した。雑多な人々、大きな看板、様々な店、光、儚い夢や金の匂いなどが目の前を通り過ぎる気がしたが、単に私がそういった物事を能動的に景色に投影しただけかも分からない。

 この映画の「まんが島」とは、表現者であるまんが家達が、まんが家である事に纏わる様々な事、―貧乏である事、貧乏である事の惨めさ、表現する事に纏わる狂気、そしてそれらの先にある美しさが具現化される島であって、更に、それらを具現化する為であれば全ての事が起こり得る島、と言える。この中で表現されている事は、脚本、監督をした作者守屋文雄自身の身の周りから得たイメージで、そのまま作者の世界であり、主人公はそのまま作者自身でもあるだろう。

 まんが島のこういった世界は、どこまで行っても一人称の世界であって、世間との交わり、又は人間同士の交わりは時折にしか見られず、観る人は選ぶ映画である気はする。そしてそういった閉じた世界が進んで行った先が、その世界の崩壊であるのは、理に適っている。それでも、新たに表現を目指す人が居さえすれば、まんが島はまた復活する、という訳だ。

 監督について、構図も非常に決まっている事が多いし、色彩、陰影の使い方、頻繁に出て来る登場人物の表情の漫画的な描き方、過去の映画へのオマージュなど、技巧的にどれも物凄く上手い。過去の映画からの引用としては、『ドーン・オブ・ザ・デッド』などのゾンビ物、黒澤映画、それから私には何故だか『仁義なき戦い』が思い浮かんだ。特に「サイトウ」という登場人物だったと思うが、この登場人物は、黒澤的な狂気の三倍濃縮の様だと感じた。

 私が印象に残ったシーンは、ヤモリの足跡が出て来た後の幻想的なシーンと、もう一つ、最後の方で現実世界に戻った登場人物の一人が、若い編集者に表現者としての自分をささやかに認められる場面があるが、その場面の余りのささやかさがリアルでとても良かった。

 一方、この映画ではヒューマンドラマの萌芽もあったが、それがまだ咲き切れていない様に私には感じられた。又、「何でもあり」のまんが島では、様々な表現の都合次第で物語が変わってしまうのは良いのだが、その表現至上のご都合主義が完全にアバンギャルドにまで振り切れて、昇華され切れてはいかったと、私には感じられた。

 ただし、この監督の表現への強い情熱は本物だと思う。この映画は、その表現への強い情熱を観客が感じて、見終わった後に清々しさを感じる、そういう映画だと思う。

 最後に、主演の水澤紳吾の演技は非常に良かった。漫画的な描写を正面から演じながら、そこから「臭み」を取り除く事に成功していた。この作品は、彼の演技に負うている所も大きい。