小声で挨拶

詩を書いている上田丘と申します。考えに浮かんだ事を書いて行きます。

倉橋ヨエコ 「依存症 ~レッツゴー! ハイヒール~」について(アルバム『解体ピアノ』より)

 「昭和歌謡曲調のポップス」というポップスのジャンルがある。倉橋ヨエコも、実際に「東京ドドンパ娘」をカバーしているが、「昭和歌謡曲調のポップス」というのは勿論昭和の歌謡曲をそのまま歌った物ではなく、現代の感覚で解釈し直した物だ。倉橋ヨエコをまず知らない人に紹介する場合、この昭和歌謡曲風のJポップのシンガーソングライターだ、と言う事になるだろう。但し私個人のイメージでは、彼女は元々クラシックのピアノがミュージシャンの原点としてある印象で、それは何故かと言うと、当時特に彼女の初期のミニアルバムを聴いて、大学でクラシックを習っていた女の子が卒業をして、ポップスでライブハウスを回り始める様になったのだな、という風に彼女の事を考えていたからだ。それに、後期のフルアルバムを聴いていても、はっきりと昭和歌謡曲調の曲ばかりではないし、聴いていてほろりとしてしまう様な、私個人としては彼女の真骨頂と呼びたい最良と感じる部分は、最終的にはそのエッセンスではない気がする。私は先日北海道にバイク旅行に出掛けて、何日か北海道の自然をひたすらバイクで走る様な日を続けていた時に、不図倉橋ヨエコの「ピエロ」をフルフェイス・ヘルメットの中で歌ってみたら、突然泣けてきて仕方がなくなってしまい、実際に泣きながら「ピエロ」を熱唱しつつバイクを走らせた。私は、倉橋ヨエコ自身もライブで自分で作った歌を泣きながら弾き語っていた事なども思い出しつつ、同時に私自身もバイクを走らせながら、泣きながら熱唱するという、考えてみると何だかよく分からない状態になったのだった。この辺りの倉橋ヨエコのエッセンスは、ブルースにすら通じると思う。と言うか、より正確に私の気持ちを言えば、倉橋ヨエコは我々のブルースであり、我々のマイルズ・デイビスではなかったのか、と、それ程は冗談も交えずに、そんな気もするのだ。

 一方、それでも尚、倉橋ヨエコの持つ「昭和歌謡曲風な要素」は、「泣き」の部分と同じ位重要な要素だ。何故かと言うと、「昭和歌謡曲調の型」が、彼女の中にある、そのまま出されては作品にはなり辛い様な暗い部分やひねくれた部分を、意識的にそういった型を通すことによって、キッチュであり、キャッチーでもあって、聴いた人が一遍に好きになってしまう物に変えてくれるからだ。「昭和歌謡曲調のポップス」と言えば先ず椎名林檎の名前が普通の人には浮かぶだろう。椎名林檎倉橋ヨエコ表現者の本質としては直接の比較対象ではないだろうが、この「昭和歌謡曲調」という言葉でこの二人を見てみると、椎名林檎は自分の暗い部分を表現するために、同様に暗い型を使用している様だ。言い換えると、自分の中の暗い部分を表現するために、同じく同様に暗い型を選んでいるという関係であるのに対して、倉橋ヨエコの場合、そのままでは生々しすぎて表現出来ず、芸術作品にならない部分を変換する装置として、「昭和歌謡」という型を利用している。椎名林檎の場合、表現する事と型が同一であるとも言えるが、倉橋ヨエコの場合、自分の中にある物を表現する為に型をフィルターにしているのだ。椎名林檎の行った表現は、それはそれで当然存在して然るべきだが、倉橋ヨエコが行った様な変換をする事に成功した作品こそが、芸術の真骨頂だと思う。

 この「依存症 ~レッツゴー! ハイヒール~」(以下「依存症」と書く)を考える際には、笠置シズ子の「ジャングル・ブギー」が比較対象として思い浮かぶ。と、こう言うと、きっとこれを読んだ人は、(あの伝説の歌手と「比較対象」にするなんて)と呆れるだろうが、倉橋ヨエコはシンガーソングライターである事もそうだが、歌う力自体も、私はそれ程大きく引けを取る訳ではないと思う。どういう訳かCDからは歌声に笠置シズ子程の迫力は感じられないが、実際に聴いた倉橋ヨエコの歌唱力は、特に廃業をした時期に近付く程上手くなっていたと思う。私が倉橋ヨエコのライブを聴き始めた頃、時々余り歌が良くないと感じた事があったが、それももしかすると、小さな箱でやった時で、そういった箱で音響技術的に余り上手くなかっただけなのかも分からない。正直に言うと、その辺りの技術的な所は分からないが。兎に角歌声が楽器の演奏の音量に負けて聴こえない時があったのだ。どちらかというと、そう思う時というのは、今思い出してみると、確かに小さな箱の場合が多くて、それなりの大きさの所でやった時には、そう言えばとても良かった事が多かった様にも思える。

 いずれにしても、もうかなり彼女がその界隈の注目を集めていた頃に観たライブでは、彼女が作る曲が良いのもさることながら、彼女の歌声は聴衆を圧倒していたし、私が満員の青山のライブハウスで彼女を観た頃には、彼女がそこにいた聴衆達の歌姫の存在になっていると私は感じた。そしてひと言付け加えると、私はどういう訳かその事に対して良く感じなかった。私は、嫉妬していたのだろう。ここで一つ告白をすると、私はそれ以来彼女を生で観に行く事はしなくなった。この辺りも、もしかすると、歌姫だけがなせる罪なのかも分からない。(笑)

 厳密に言えば、笠置シズ子の歌を実際に聴いた事が私はないし、倉橋ヨエコよりも笠置シズ子の方が絶対に歌唱力があったとも私には言えない。唯私に言える事は、CDで聴くよりも実際の倉橋ヨエコの歌唱力はあるし、良い時であれば、実際に聴くと鳥肌が立つだけでなく、惚れ惚れする程良い。それに付け加えておくと、物事というのは、無理に優劣を付けると何事もそこで話は終わってしまい、それ以降の展開はなくなってしまうものだ。

 先に述べた通り、「ジャングル・ブギー」とこの「依存症」という曲には、共通点がある。もっと言えば、「依存症」という曲が「ジャングル・ブギー」の流れを汲んだ作品と言った方が正しい。倉橋ヨエコが直接「ジャングル・ブギー」を意識して作ったかは分からないが、直接的、間接的、いずれかで大きな影響を受けているのは間違いないだろう。この「依存症」と同系統の倉橋の曲に「恋の大捜査」があるが、こちらでは「ジャングル・ブギー」の影響がより分かり易い歌詞がある。

「私は獣 都会のジャングルへ」

(作詞作曲:倉橋ヨエコ 2003年『モダンガール』「恋の大捜査」より引用)

 「ジャングル・ブギー」にしても、「依存症」にしても、「恋の大捜査」にしても、野性的な恋愛に落ちた女性の情熱を歌った曲だ。又、「依存症」の冒頭の倉橋の吠える様なスキャットは、「ジャングル・ブギー」の冒頭の、笠置シズ子が歌う叫びにそっくりだ。

 そういった同じ系譜の曲であるが、「ジャングル・ブギー」と「依存症」を比べた時、曲の成り立ちによる違いが見えて来る。それを簡単に述べたい。

 「ジャングル・ブギー」については、何をおいても先ずは笠置シズ子が歌っている曲という事だ。笠置シズ子は「ブギーの女王」と言われて、「東京ブギウギ」や「買い物ブギー」などのブギーが先ず思い浮かぶが、そういった勢いのある歌だけでなく、「ラッパと娘」だとか、「センチメンタル・ダイナ」の様な曲でも深い情感を表現している。ビリー・ホリデーの様な世界的、歴史的に有名な歌い手と比べられるべき歌手だし、この二人にはどこか通じる所がある気もする。もう一つ「ジャングル・ブギー」については、歌詞を黒澤明が書いており、彼の映画、例えば「七人の侍」だとかと通じる骨太で明快な世界観で、ジャングルの中で恋する女性が描かれている。

 一方、「依存症」の方は、曲、歌詞共に倉橋の手によるもので、恋する自分を「依存症」と捻った表現をする事で、より自分を客観視した表現を目指している。そしてこの表現、恋する相手に「依存」して、

「レッツゴー!ハイヒール ぬかるみだってざぶざぶと

あなたに会うために」

(作詞作曲:倉橋ヨエコ 2008年『解体ピアノ』「依存症 ~レッツゴー! ハイヒール~」より引用)

進んで行く女の子の姿は、本来は女性に向けて作られている筈だが、倉橋ヨエコの偉い所は、それが異性である男性にも充分共感出来、理解出来る所だ。

 私は普段、自分が倉橋ヨエコの作品の「捻くれた」所が好きなのだと思っていたが、もしかすると、本当は彼女の「必死」さに共感しているのかも知れない。そう言えば、彼女の曲はそういう曲が多い。そんな曲ばかりと言ってもいいかも知れない。必死という事は、決して格好悪くなどない。むしろ、大人になればなる程、必死でいる事の素敵さが分かってくる。この曲も、そんな倉橋ヨエコの一途さの表現でもある。そう考えると、私が思っていたよりも、この曲はとても深い事を歌った、凄い曲なのかも知れない。