小声で挨拶

詩を書いている上田丘と申します。考えに浮かんだ事を書いて行きます。

詩の読書会について

 詩の読書会をしたい。先日そう思い立ってしまった。文学作品を二十年以上作ってきた中で、私の一番の関心事は、自分の作品がどんな物であるかを知りたいという事に尽きる。一般的には、詩の鑑賞の方が、散文作品の鑑賞よりも難しい様で、それは詩の言語の半分は音や韻律などの音楽的な要素であり、それに気付かないと、詩が非常に難解な事を表現しているかの様に見え出すからだ。―自分の作品がどんな物であるかを知りたくて、色々と七転八倒して来たのだが、最近は何となく自分がやっている事が分かって来た気がして来ていて、嬉しく感じていた所だった。読書会というのは面白くて、普段は会って喋る事などない人同士で、共通の話題で話が出来る場だ。何となく見えて来た詩という物で、誰か他の人と話をして、緩い繋がりが持てるのであれば、それは人生を豊かにする。そう考えたので、詩の読書会をしてみよう、という気になった。


 私は若い頃は、(よくみんな詩だとかを書かないでいて、不安にならないなぁ)とよく思う事があった。私は、不安だから文学作品を作っていたのだ。芸術は、抽象的な思考によって行動し、高度な社会性の中で生きる人間という特殊な生物が、その特殊性に根差して本能的に必要とする営みなんだと思う。それによって、何かの辻褄を合わせている気がするのだ。翻って私が自分で作品を作り、それがどんな物かを知りたいと思うのは、人間の本能から出ている物で、言葉本来の意味で、芸術家の自我であり、芸術家のエゴだ。こういうエゴは、私に限らず、他の芸術家も必ず持っているだろう。そしてこのエゴは、利他に向かわない代わりに、損得勘定の産物ではない。


 とはいえ、先日第一回目の読書会を催そうとしたのだが、参加者が少なかった為、中止させて頂いた。参加表明して頂いた方へは大変申し訳ありませんでした。情けない気持ちになるのだが、まあ、仕方がない。私自身がやりたい事は決まっているので、出来る事をしていくだけだろう。実は前回中止にしたので、開催場所として武蔵小杉駅近隣のカフェで、と考えているのだが、具体的にどこのお店であればそういった場所として利用させて頂けるかだとかも検討をしていない。これからお店を回ったりしないといけないだろう。それに、詩人が集まる会に顔を出すのも良いかも知れない。もしかしたら参加して貰える人がいるかも知れないし、読書会の周知にもなるかも知れない。次の読書会は、八月十日なのだが、こんな事で参加者集めは間に合うのか、また参加者が少なくて、中止のお断りをするのも、いやだなあ、などとあたふたするのだが、それも含めて楽しむしかないか、という気もする。

 

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